数年前までは、履歴書に血液型まで書かせる企業もいたくらい、話題になることの多い血液型による性格分析。
世界中見渡しても、これほど血液型が話題になる国はありません。
しかしなぜこれほどまで日本で流行したのでしょう?
実は最初に日本で広まったのは戦時中でした。
戦時中、怪我をする人が増えた時、治療をスムーズにするために全国民の血液型を調べた結果、自分の血液型を知る人が多くなり、第一次血液型ブームが到来したのです。
その後、1927年に心理学者・古川竹二が血液型と気質の関連性の論文を発表。
しかし、すぐにこの説について検討が行われたが、支持されず、いったんは消失。
当時の古川さんの「血液型と気質相関」を血液型別に要約すれば次のようになる。
- A型:内気、遠慮深い、温厚、用心深い、物事を気にする、事に躊躇する、感動し易い、争いを好まない、自分を犠牲にする
- B型:気軽で淡白、快活でよくしゃべる、刺激に敏感、物事を気にしない、気軽に人と交わる、世話好き、よく気がつく、行動が派手
- O型:落ち着きがある(非暗示性に乏しい)、感情に駆られない、物に同じない、精神力が強い、意思が強い、自信家、人の意見に左右されない、物事に迷わない、利かぬ気
- AB型:(内面A型、外面B型):内と外とが違っていて、判断しにくい人
首相襲撃事件がブームのきっかけに
この古川理論は、消滅したかと思われたが、浜口雄幸首相襲撃事件がきっかけとなり、日本で第二次血液型ブーム到来。
1930年11月14日、浜口雄幸首相の襲撃事件。
この日、岡山での陸軍大演習を視察するため、東京駅から列車に乗ろうとした浜口首相が右翼の青年に襲われ、ピストルで腹部を撃たれた。
連絡を受けて東大病院から外科の塩田広重教授が駆けつけ、血液型(ABO式)を検査し、血液型の合う次男からその場で輸血を行った。
浜口も次男もともにO型で、輸血時のトラブルがもっとも少ないタイプだった。
その後、搬送先の東大病院でさらにO型の輸血を受け、弾丸で傷ついた小腸を切除する大手術をうけ、奇跡的に一命を取りとめた。
この一連の事件報道により、一般庶民は初めて「輸血と血液型」というものを知ることになります。
「輸血により首相の生命が助かった」という話が広く知れわたり、患者や家族から「輸血してほしい」という医師に対する圧力も高まった。
供血者が足りない場合があり、1931年8月には、東京深川の木賃宿(簡易宿泊所)に泊まっている貧乏人(浮浪者、ルンペン)を対象に初の買血が行われている。
百貨店の客寄せで評判になった「血液型検査所」
大阪の大丸百貨店では、客寄せに無料の「血液型検査所」を開設したところ、これが大当たりで沢山のお客が詰めかけた。
さらに街には「血液型占い師」というのも登場。
1回70銭で、お客の指から血液を一滴採取して血液型を判定し、それに基づいて性格や運勢を占ってくれるというもの。
こうして、古川説はブームとなるのですが、医学者として真っ向から批判したのが京大医学部解剖学の助教授金関丈夫(後九大教授)。
彼は
「血液型が遺伝することははっきりしている。もし血液型により気質が決定されるのであれば、気質もまた遺伝しなければならない。しかし親子の間でさえ、メンデルの法則にそのような気質の遺伝関係ははっきりしない」
と主張。
これは古川説の弱点をついていた。
古川は「血液型が気質を決定する」ということの研究に打ち込んでいて、気質の遺伝については調べていなかったでした。
ちなみに古川のデータは、気質の決定法も統計処理法もデタラメであった。
古川説にとどめを刺したのは、金沢医大法医学の教授・古畑でした。
はじめ古川説の支援者だった古畑は、1936年に東京帝国大学の教授に転じると、翌年から医学専門雑誌に、打って変わって古川説批判の論評を連載を開始。
このように古川説に対する非難が急速に高まり、彼は追い詰められて行った。
「流行には必ず終わりがある」。
ストレスを溜めた古川は1940年、風邪をこじらせて急性肺炎のため急死。まだ49歳だった。
こうして1927年に始まった古川竹二の研究は、わずか13年で幕を迎えたのです。
第三次血液型ブーム
しかし戦後、1971年に古川に影響を受けた能見正比古が『血液型でわかる相性』など一連の世間向けの著作を発表・出版。
これによって第三次血液型ブームが到来。
テレビの普及が後押し、国民的ブームに。
1970年代に出版された関連本がきっかけで、その後もテレビ番組などで紹介され、血液型の性格診断は一気に全国に広がり、その後の心理テストに繋がるスピリチュアルなブームを作り出したのです。
ただ、いずれも統計上の分析や結果に不備があったり、追検査で十分な証明ができなかったりしたことで、未だ学説として認められていません。