佐賀県にある、見えない世界遺産!!として有名な三重津海軍跡地。
私も福岡から電車とバスを乗り継いて行ったのですが、見事な地獄時刻表もあり、なかなかの交通不毛地帯です。
とはいえ、人気のないあぜ道を歩き、またそれが心地よかったりもしました。
人気のないのは、海軍跡地も一緒で、のんびりゆっくりと楽しめる観光スポットです。
人気が無いのと同様に、海軍跡地には、跡地がなく、ないないずくしなのですが…
この三重津は、日本の近代化に貢献した凄いスポットなのです。
では、そんな世界遺産「佐賀、三重津海軍所跡」。
2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産の一つとして登録されたのですが…
ちょっと待って⁉
長崎じゃなく、なぜ外洋に面していない佐賀に海軍造船所が出来たの??
時は幕末。長崎へ外国船の猛アタックが日々エスカレートしていました。
ここで、そもそもの疑問。
なぜ欧米は日本へ進出しようとしたの??
「中国を植民地化した後は・・、次は日本だ⁉」となったの??
いいえ、本当の理由は違いました。
当時、日本では近代化に向けて、欧米から機械を爆買いしていました。
線路やガス塔や銃・・・。
そこで、セールスをさらに強化するために、日々営業にきていたのです。
最近の研究によりますと、欧米諸国は、最初から日本を植民地化しようという気なんて(というよりそんな余裕が)全然なかったということが解明されています。
欧米からすると機械を買いまくって儲けさせてくれたので、わざわざ労力をかけて植民地にする意味がなく、「金をかけずにボロ儲けしたい」思惑がありました。
また仮に植民地化すれば、軍隊駐留に莫大な国家予算かさみ、割に合わないという思惑も。
それが証拠に、下関(+彦島)や対馬を軍事占領した時にも、交渉が成立するとあっさり退去しています。
ちなみに、隣の朝鮮にいたっては、日本が明治9年になって、無理やり開国されるまで、欧米は手出しもしていません。
欧米はとても忙しかった
幕末期には、ヨーロッパでは「クリミア戦争」が勃発。
日本近海でも英仏とロシアの艦隊が激戦を展開。
終わったら終わったで、今度は中国で「太平天国の乱」が勃発。
イギリス軍は中国に何年も釘付けで、日本を占領する時間などなく…
またアメリカはアメリカでこちらも大忙し。
ペリー来航後すぐに「南北戦争」が勃発。
とても海外進出どころではなくなっており、各国とも、日本と戦争する余裕などなかったのです。
よって、欧米諸国は最初から軍事侵略ではなく、圧力をかけつつも「開国」「港の開放」「貿易」を求めてきたわけで、日本を開国させておけば、自前で維持費用を払わなくても、日本の港を「中継拠点(寄港地)」として利用できる・・・
という損得勘定があったわけです。(プラス貿易相手にして金を稼ぐ)
ちなみに、この時開港された港町、例えば長崎、神戸、横浜。
この港に共通するものといえば、、そう中華街。
実はこの時、欧米が中国人をある理由から連れてきたからでした。
その理由は・・・(雑学へ)
https://www.quizbank.biz/tourism/890/
日本の爆買いが良い方向に!
爆買いによって、一気に慢性的な輸入超過=貿易赤字に陥ります。
(輸出品が絹と茶しかなかった)ところが、逆にこれが良かった。
欧米からしたら、日本はほっといても自分から物をドンドン買ってくれるので、わざわざ莫大な金をつぎ込んで軍事占領しなくても、労せずにボロ儲けできる「お得意さん(カモ)」だったのです。
一方の中国(清)は、開国してもそもそも「近代化しよう」なんていう気がありませんでしたから、特産品の紅茶を欧米に大量に輸出する一方で、何も輸入しませんから、欧米からしたら貿易すればするほど損する「貿易摩擦国」でした。
これが、イギリスが中国にアヘンを売り込み「アヘン戦争」。
ひいては植民地化を引き起こすことになった最大の原因だったのです。
一日でも早く防衛を強化したい日本
「こらー!隙あらば植民地化するぞ」
という脅しをガンガンかけられており、また日本人も、隣国の大国である中国がアヘン戦争で敗北した状況を目の当たりにしていたので
「植民地化」を阻止しようと躍起になっていた訳です。
ちなみに、
アヘン戦争に中国が負けたのを知り、軍事を強化していた徳川幕府は、戦略として、戦場での主食を米から、パンに変えたのです。
これが日本でパンが食べられるようになって由来となっているのですが、
その理由は・・・
https://www.quizbank.biz/trivia/883/
長崎港を警護した佐賀藩
このような背景のなか、外国に開かれた唯一の港であった長崎港を警護する任務が佐賀藩にあったのです。
外国勢力からの圧力に対抗できる防衛力を整備するため、独自に外国船を購入し海軍を編成しました。
ご存知、敵から武器を購入し、敵と戦うというヘンテコな構図…
その佐賀藩海軍の根拠地となったのが、「三重津海軍所跡」だったのです。
洋式船の修理に使用する部品をつくる「製作場」、修理などのために船を引き入れる「御修覆場(おんしゅうふくば)」などが整備され、三重津海軍所は、幕末の佐賀藩の洋式船による海軍教育、船の操縦や射撃等の訓練、船の修理や船をつくる施設として機能しました。
日本初の実用蒸気船となる「凌風丸(りょうふうまる)」は慶応元(1865)年にここで製造されました。
なぜ、長崎じゃなく佐賀にドッグを作ったの??
ドック(船渠)とは、船をつくったり修理したりする施設のことです。
当時佐賀藩が所有していた和船は全長20m程度でしたが、幕末にオランダから輸入した蒸気軍艦「電流丸」は全長45mもありました。
その大きさは、とても船屋地区では管理や修理ができるものではありません。
そこで、南端におかれた「修覆場地区」に、このような大型の洋式船を修理するためのドックをつくったのです。
通常、ドック内の水は大型のポンプで汲み出して排水されますが、当時はそのような機械がなかったため、三重津海軍所のドックは、日本一とも言われる有明海の潮の干満差を利用して、満潮時に船をドック内に入れ、潮が引くことで自然に排水されるという仕組みになっていました。
ちなみに、今の三重津海軍跡地は、PR動画にあるように「みえない世界遺産、みえつ。」
ただの原っぱです。
現存する日本で最古の木造ドック海軍所跡は、劣化や腐食を防ぐため発掘調査後に土の中に埋め戻され、現地は単なる草地になっています。
そのため、当時の三重津海軍所の様子をイメージしていただけるよう、CG映像をVR(バーチャルリアリティ)機器等で体験する「三重津タイムクルーズ」を佐野常民記念館でスタートさせました。
「放送作家・横山龍太のアイデア研究所」より引用
https://ameblo.jp/pon-ryuta/entry-12435428330.html